喪中はがき

12月になってから喪中はがきが届くようになった。喪中はがきの差出人を見るたび、大人だなあと思う。喪中はがきを出すようになるなんてほんとうに大人だと思う。子供は年賀状を出しても喪中はがきは出さない。私の場合、小さい頃は喪中という概念もなかっただろうし、喪中でも年賀状を書いて出していたような気がする。年賀状は楽しいけれど喪中はがきは楽しくないと思っていたのかもしれない。楽しいとか楽しくないとか、好きとか嫌いとかではなくて、喪中はがきをせっせと印刷して出すようになった人たちは大人だなと思う。

年賀状だとたいてい一言は手書きを添えてくれる人が多いのだけど喪中はがきでそういうのはあまり見かけない。むしろ事務的にただ印刷して出しましたというふうにみえるほうが良いということになっているのだろうか。年に一度だけの連絡手段だったりもする年賀状の代わりなのだから、もっと楽しみの要素があってもいいのになんて私は思う。それでもときどきは手書きの喪中はがきが届く。たったそれだけのことなのにちょっとうれしい気持ちになる。喪中はがきでうれしいという表現は変かもしれないけれど、そんな感じだ。楽しい年賀状と同じように楽しい喪中はがきがあったらいいのにと喪中はがきを手にしながら考えたりしている。

ノッてます

このところノッているような気がする。毎朝だいたいいつも7時ぐらいに目が覚めめる様になった。目覚まし時計がなくても寝過ごすこともない。たぶん、早く家に帰るようにしているからだろうと思う。

夜の9時や10時まで大学に残っていたところで、なにか仕事が進むとかいい仕事が出来るなんてことはないのだ。夕方の6時ぐらいまでやっていたのに出来なかったものが、そのあと数時間ねばったところで出来るようになるなんてことはない。時間を掛ければ掛けただけ前に進むというような仕事をしているわけではないのだから時間を掛けてもつまらない。それなら早く帰ったほうがいいと思うようになった。家にも論文のプリントなども持って帰らないようにした。持って帰っても読まないし、読まずに次の日にそのままのかばんを大学で開いて情けない気分で一日をはじめるのも嫌になった。

腹八分目ではないけれど、まだもうちょっとできるなというぐらいの気分の時に、後ろ髪をひかれながら家に帰るぐらいのほうがいいみたいだ。家に早く帰ると夕食を食べたあとにも数時間なにかができる。遅く帰ると、夕食を食べるともう遅いし、疲れているから何もしないで寝るだけだ。早く帰れば時間もあるし、身体も疲れていないから何かやろうという気持ちになる。

こうしてみると、ノッているのはノッていない時間を無くしたからかもしれない。ノッていない時間を続けるのはつらい事だ。ノッていないと感じた時にやめることが出来るのがノッている時なのだろうか。ともかくノッているような気がしているので、これはこのままにしておこうと思う。