葛飾県

明治2年になって、下総国はのあったあたりに葛飾県というものが置かれたようだ。現在の千葉県北西部、埼玉県東部、東京都東部や、茨城県西部に相当する地域だったらしい。県庁は流山市立博物館の近くにあったそうで、そこが葛飾郡だったから、葛飾県という名前になったとWikipediaには書かれている。そして、この葛飾県はその2年後の明治4年には印旛県に統合されて消えたそうだ。

葛飾は昔からある名前のようで、たしかに今もいろいろなところで葛の字を見る。私の住んでいる我孫子市も東葛地域と呼ばれている。葛飾北斎も葛飾の人らしい。そのあたりはずっと下総国で、そのあとも葛飾県となっていて、結びつきの強い地域だったのかもしれない。いまも東京都には葛飾区という区があるけれど、そこは葛飾郡や葛飾県のごく一部だったようだ。

地図を見ると、いまは、江戸川がちょうど県境になって、千葉県と、東京都・埼玉県が分けられている。だけど、葛飾県あるいは、下総国の範囲を見ると、昔は荒川が境だったのかもしれない。葛飾区史の地図らはそう見えた。そもそも今と昔では、川の流れている場所もちがうだろうし、埋立て等で増えた土地もあっただろう。

水戸街道は、武蔵野国千住宿を出たら荒川を越えて、次の新宿は下総国だ。その後の、松戸宿、小金宿、我孫子宿、取手宿、藤代宿までは下総国で、たぶん小貝川を超えた次の若柴宿は常陸国なのではないかな。小貝川が下総国と常陸の国の境目のような気がする。気になってきたので、調べたい。

下総国相馬郡

私が住んでいる千葉県我孫子市は、江戸時代までは下総国相馬郡の一部だったそうだ。千葉県は、安房国と上総国と下総国の一部で成り立っている。なかでも下総国の地理は複雑で、現在の千葉県の他に、茨城県、埼玉県、東京都の一部も含むようである。その下総国相馬郡は、明治時代には、千葉県と茨城県に分かれ、それぞれ南相馬郡と北相馬郡になったようだ。

どうやら、相馬御厨という伊勢神宮に寄進された荘園が平安時代末期に存在して、そこから相馬の名前が出たたようだ。相馬氏はもとは相馬御厨にいついた千葉氏の一族らしいこともWikipediaで知った。

地域の歴史というのは、小学生や中学生の頃に、社会科の授業で、教科の副読本などで習ったものだ。だけど、私は3年前に我孫子市に引っ越してきたばかりで、この地域のことはよく知らない。せっかくなので調べてみたいと思う。近所の図書館には地域の歴史の書棚コーナーがあったような気がする。