タグ: 歳時記

  • 喪中はがき

    12月になってから喪中はがきが届くようになった。喪中はがきの差出人を見るたび、大人だなあと思う。喪中はがきを出すようになるなんてほんとうに大人だと思う。子供は年賀状を出しても喪中はがきは出さない。私の場合、小さい頃は喪中という概念もなかっただろうし、喪中でも年賀状を書いて出していたような気がする。年賀状は楽しいけれど喪中はがきは楽しくないと思っていたのかもしれない。楽しいとか楽しくないとか、好きとか嫌いとかではなくて、喪中はがきをせっせと印刷して出すようになった人たちは大人だなと思う。

    年賀状だとたいてい一言は手書きを添えてくれる人が多いのだけど喪中はがきでそういうのはあまり見かけない。むしろ事務的にただ印刷して出しましたというふうにみえるほうが良いということになっているのだろうか。年に一度だけの連絡手段だったりもする年賀状の代わりなのだから、もっと楽しみの要素があってもいいのになんて私は思う。それでもときどきは手書きの喪中はがきが届く。たったそれだけのことなのにちょっとうれしい気持ちになる。喪中はがきでうれしいという表現は変かもしれないけれど、そんな感じだ。楽しい年賀状と同じように楽しい喪中はがきがあったらいいのにと喪中はがきを手にしながら考えたりしている。

  • 陶製鏡餅制作中

    Ceramic kagami Mochi 陶製鏡餅

    正月に向けて鏡餅を作り始めた。去年も作ろうと思いついたけれど、時すでに遅しだった。正月に間に合わせるには早いうちに作り始めないと完成が間に合わない。反省を生かして今年は早く作り始めることにした。季節を先取りするというのはそれだけでワクワクする。

    この鏡餅は上の餅を持ち上げると入れ物になっているというようにした。最近はずっと蓋物に凝っているので鏡餅のことを思い出した時にも、まず蓋物にしようと考えた。粘土を鏡餅の形にして、上下に切って中身をくり抜けばいい。蓋物を作るときに苦労するのはいつも同じで、くり抜いているうちに形が崩れたり、合わせる部分がぴったり合わなったりというところだ。今回はとりあえず上下がはまったので、大丈夫だろう。少しづつ上達してきたような気がする。

    素焼きのあとに掛ける釉薬も自分で作りたい。このあいだ手に入れた籾灰を使えば、たぶん白萩釉のようになるはずだ。がんばって釉薬もテストして、正月までに間に合わせたい。それに鏡餅の上にのせる蜜柑も作りたいなあ。せっかくだから、おせち料理も焼き物で作ろうかな。正月まで忙しくなりそうだ。

  • チェレステ

    私がビアンキの自転車にのることになった理由はとても単純で、カッコイイと思ったということだけだ。10年ぐらい前に雑誌で見たビアンキの自転車に乗ったイタリア人は本当にかっこよかったのだ。少し濡れた石畳の上をスーツの紳士がチェレステカラーの自転車に跨っている姿はいまも脳裏に焼き付いている。いつかあんなふうに自転車に乗りたいと思ったものだ。

    ところで「チェレステ」で画像検索するときちんとビアンキの自転車がヒットするのに、「celeste」と英語で(イタリア語で)検索するとダイナマイトなバディがヒットするのはなぜなんだろう。きっとCelesteさんなのだろうけど、「きちんと」してるのは実はむしろこっちなのだろうか。それはやはり複雑な気持ちになる。

    暑い季節が終わったと思ったら急に寒くなって、自転車に乗るには風が冷たくなってしまった。だけどその名前の由来のとおり晴れた日にはもっと自転車に乗りたいと思う。

  • くど・かまど

    竹細工の部屋の囲炉裏のことを書いて「くど」のことを思い出した。「くど」と言うのはたぶんこのあたりの方言で、全国的には「かまど」といわれているものと同じだと思う。

    私が高校にあがる時に我が家は改築されて、取り壊してしまって今はないのだけれど、それまでは三基のクドがあった。我が家が建てられたのも割と最近になってからだったらしく、そのクドもタイルが貼られていたりする割とモダンで丈夫ななものだったと思う。私が知っている時代になってからは、そのクドを使うのは1年にせいぜい数回ほどだった。法事などでたくさん人が集まる時と、年末のもちをつく時ぐらいだったような気がする。

    年末にもちをつくのは楽しかった。私はクドの火の守りをする役で、たのしくクドに薪などを放り込んでいた。薪と言っても立派な薪はないので、竹細工の余った竹片や、桑畑から拾ってきた枝や切り株を割ったものだった。そして湯を沸かしてもち米を蒸すのがクドに与えられたおそらく唯一の仕事だっただろう。

    小学生にとって、火遊びというのは何よりも興奮する遊びなので、クドには片っぱしからいろんなものを放り込んだ。古新聞やゴミ箱のゴミなど、絶対にダメだといわれたものも、親の目を盗んで放り込んだ。煙の色を見ればすぐにばれるのだけど、懲りずにいろんなものを放り込むのが楽しかった。

    冬の寒い土間の部屋がクドに火を入れてから暖まっていくのが楽しかった。それになにか仕事を任されるというのも楽しい理由だったかもしれない。もしも今でもクドがあったとして、年に数回程度なら、またクドで料理をするのもいいかもしれないなと思う。

  • 有楽苑で初釜 2010

    Yuya Tamai

    こいつは春から縁起がいいわい~、なんてことを期待して愛知県犬山市の有楽苑に行ってきた。わざわざ1月3日に行ったのにはわけがある。年のはじめは初釜だ。初詣よりも初釜だ。せっかくいくなら有楽苑こそふさわしいはずだと思った。なぜなら国宝茶室の如庵(NYOAN!)があるからだ。

    如庵がある、と言っても中に入り込めるわけではなく、窓の隙間から覗くだけだ。こういうとき、出目金だと隅々までいろいろ見えるのじゃないかと思う。こっちはしかもメガネだからぎりぎりまで茶室に近寄ることもできない。それにしても茶室というのは暗い。電気の明かりの無い中で一杯の茶をのむというのは興奮するものだろう。窓から茶室の隅々を覗き込みながら、自らがそこで亭主として、あるいは客としてそこにいる姿を想像した。

    そのあと道具の拝見をしたのだけど、ひとつ前の人たちがかなりの手練で困った。いきなり茶碗をグワシとつかんで裏返し始めたのだ。手当たりしだいに触っているではないか。こんなこともできるのか、さすがは初釜、出血大サービスか。そう期待してしまったが、そのオバサン達がやり過ぎなだけだった。その勢いにのって、「茶杓を触っていいですか」と聞いてみたが、「だめだ」って言われた。当たり前か。

    それで、肝心の茶席の方はというと勝本師の言うとおりで、ちょっと期待はずれだったかもしれない。待合での息が詰まる用な緊張感とは対照的に茶席では気が抜けてしまった。部屋が広いから深呼吸もできるし、周りのすべてを見渡すこともできる。隙間が多すぎて締まらないような気がした。大寄せの茶会の物足りなさというのはここに問題があるのではないか。狭くて後ろを振り返ることもできない、つばをのむとその音を聞かれる、視線を上げて相手の顔を見られない、そんな重苦しいくらいの場所がいいかもしれない。千利休はそんなことを考えて二畳の茶室を作ったのだろうか。