Tag: 陶芸

  • 灰釉香合 銘 オタフク

    灰釉香合 銘 オタフク

    特に釉薬が気になり始めて1年近くになる。庭の落ち葉や剪定した枝などを燃やした灰から釉薬を作ろうとしたのは去年の秋のことだ。釉薬というのは灰と長石を混ぜれば誰でも簡単に作れるものだと知ってから、いろいろ実験を重ねている。作ってばかりは退屈なので少しづつ自分の作品も紹介したいと思う。プロの陶芸家は個展などで発表すればいいけれど、素人だって発表したくてうずうずしているのだ。

    この香合は数カ月前につくったものだ。釉薬は松灰に釜戸長石を少々混ぜてつくったもので、陶芸教室で還元焼成してもらっている。写真では上手く伝わらないけれど、デコボコがあってムラがあるのが気に入っている。五斗蒔の赤土で形をつくったときは、ダルマの香合にしようと思っていた。だけど絵を書くのが苦手なので釉薬だけを掛けて焼いたらダルマというよりもオタフクになってしまった。形だけでダルマに見せるのは難しい。

    つくづく私は灰釉や黄瀬戸が好きなんだと思う。色いろある釉薬の中でいちばん心が惹かれるような気がする。それに灰釉や黄瀬戸は単純な組み合わせだから素人でもけっこう楽に作れる釉薬だろうと感じている。その単純さがプロにとっては難しいところなのだろうけど。とにかく私にとっては面白い釉薬なのだ。だからずっと灰釉や黄瀬戸釉ばかり作っている。しばらくの間は、お気に入りと呼べる灰釉や黄瀬戸を作るのが目標だ。

  • 九成宮醴泉銘

    Suzuri 陶硯

    本屋で、最新号のPenのが書道を特集していたので思わず買ってしまった。いつか書いたように、私は中学の時に書道部で、高校の芸術の授業も書道を選択していた。だけど、消去法的に選んだだけだったので、当時は上達しようという気持ちがたいしてなかった。そのせいで、いまも下手で、あの時間はいまとなっては何の達成感もない記憶にしかなっていない。そうはいってもやはり、美しい文字を書きたいと急に強く感じるもので、本屋でそんな本を見つけては手にとってしまうなんてこともある。

    写真はというと、しばらく前に陶芸教室でつくった陶硯である。文房四宝のなかでだれでも簡単に作れるのは硯だろう。余っていた上信楽の土に黄瀬戸をいい加減に掛けてけただけのものだけどたぶん硯として十分に使えるとおもう。まだ使っていないのでまっしろなのだけど、ところで陸の部分というのは釉薬をかけるものなのだろうか。水滴がなぜかセットになっている織部の硯の写真を見ると釉薬がかかっているようなかかっていないような。墨をするにはザラザラしていないといけないような気もするし、筆が痛まない程度にツルツルでないといけないような気もするし。

    せっかくだから使わなきゃと思ったので物置や押入れを探した。けっこう色々出てくるものだ。モノを捨てられない性格なので、古いものでも記憶に残っているものはたいてい家のどこかに残っている。何年も使われていないカチンコチンの筆が数本と、貰いものの墨が1本、そして練習用の半紙が二束も出てきた。そしてこの自作の黄瀬戸陶硯で御宝が四種そろった。見るからに習字教室時代のものと思われるラインの入ったフエルトの下敷きも見つかったし、意外になんとかなるものだ。手本もどこかにあったはずと本棚を探して見つけたのが、欧陽詢の九成宮醴泉銘だ。これはまた懐かしい物が出てきたものだ。

    小学校や中学校の国語の時間にはいつも漢字テストがあった。マンガのタイトルみたいだけど、「トメ、ハネ」は大事だと習っていて、間違えるとバッテンがつけられた。それなのに、こういう書道のお手本をみると、滅茶苦茶なのだ。トメがハネになっていたり、ハネがトメになっていたり。妙に変だなあと思うと、一画抜けていたりというのもよくあった。変だぞ変だぞと、そんな事ばかり考えながら書いていた。さっきpenの書道特集を読んで、「なーんだ、好き勝手に書けばいいんじゃないか」と勇気が出てきたのだ。高島屋の魯山人展を見てからも書道をもう一度やってみたいなと思っていたところなのでいい機会かもしれない。

    更に色々さがしまわったら書道の授業でつくった篆刻の作品まで出てきた。「2年1組玉井裕也」というシールが貼られたままだ。penの特集にあった王羲之の「奉橘帖」にしても蘇軾の「黄州寒食詩巻」にしてもハンコがベタベタ押してある。1月3日ぐらいに届く年賀状のようだ。決まりなんてないんだろう。芋判みたいなのもそこら中に押してあるので、こちらも実は好き勝手やればいいのだと感じた。ちょっとまえに買った唐詩の本から好きなのを選んで芋判を押せば完成だろう。陶印を作るというのもよさそうだ。

    そういえば、あのころ、行書も何か書いていた。書家の名前は全然わからないけれど、本を読むと聞いたことのある名前がときどき出てくる。もしかしたら王羲之の蘭亭序だったかもしれないなあ。蘭亭序という名前は聞いた記憶がある。(苗字が一文字の中国人の名前はみんな書家に見えるし、詩人に見える。羨ましい。)楷書はまだしも、行書は本当に嫌いだった。頑張れば頑張るほどバランスの悪い文字になっていったことを思い出した。なんども叱られた記憶があるし、いまでも行書は好きになれない。それに引き換え九成宮醴泉銘はいいなあと思う。叱られたよりも誉められた記憶のほうが多い。カチンコチンの筆がほぐれたら書いてみようと思う。

  • 再び、川喜田半泥子のすべて展

    また、「川喜田半泥子のすべて展」に行ってきた。この企画の巡回も半泥子の地元である三重県立美術館にやってきてこれが最後の場所である。岐阜県陶芸美術館で見たとき以来、いろいろな本などを買っては読んで、川喜田半泥子のことがますます気になっていた。色々なエピソードが書かれているのだけど、全部本当におもしろいものだった。

    半泥子は窯を焚くときや、寝る前にしばしば茶杓を削っていたそうで、この展覧会でもいくつかおもしろい茶杓が出ている。かつて茶杓を作って筒をこしらえていた時に、筒の底を削りすぎて穴をあけてしまったらしい。その筒に茶杓を収めてみたら茶杓の切留のところが出てきてしまったらしい。それでその茶杓の銘は「おみくじ」にされたのだそうだ。茶杓の方には「大吉」と書かれているらしいから、なかなかイケイケな茶杓だと思う。

    三重県立美術館はやはり、半泥子のゆかりの地であるし、企画展最初の週末ということもあって、あいにくの雨天にもかかわらず混んでいた。当日は津市外でも川喜田半泥子のすべて展に連動した講演などもあったみたいで、それをはしごしてきた人もいたみたいだった。岐阜と三重とでは展示のしかたが違ってこちらもいいなあと思った。ガラスケースの時はいつも、ちょっと行儀が悪いかもしれない、正面からみている人には迷惑だろう、などと考えながらもついつい後ろに回ってみたくなる。後ろからしか見えない部分があるのだから、気になるのも仕方がない。ほかにもそういう人がたくさんいたことに勇気づけられて、私もそれに倣うことにした。新たな発見もあって満足した。半泥子が撮りためたビデオも上映中でこれも必見である。

    帰りに石水博物館にも立ち寄った。ビルの二階にあるというし、そのビルもなんとも冴えないオフィスビルだったので期待はするまいと思ったが、これがなかなか侮れない場所だった。「川喜田半泥子交遊録」という題で、いろいろな手紙や、半泥子のこういうの広さを感じさせる人たちの作品があった。有名人の若い頃の手紙などは本当におもしろいものだと感じた。そういうわけでまた行きたいと思っている。