Blog

  • 再び、川喜田半泥子のすべて展

    また、「川喜田半泥子のすべて展」に行ってきた。この企画の巡回も半泥子の地元である三重県立美術館にやってきてこれが最後の場所である。岐阜県陶芸美術館で見たとき以来、いろいろな本などを買っては読んで、川喜田半泥子のことがますます気になっていた。色々なエピソードが書かれているのだけど、全部本当におもしろいものだった。

    半泥子は窯を焚くときや、寝る前にしばしば茶杓を削っていたそうで、この展覧会でもいくつかおもしろい茶杓が出ている。かつて茶杓を作って筒をこしらえていた時に、筒の底を削りすぎて穴をあけてしまったらしい。その筒に茶杓を収めてみたら茶杓の切留のところが出てきてしまったらしい。それでその茶杓の銘は「おみくじ」にされたのだそうだ。茶杓の方には「大吉」と書かれているらしいから、なかなかイケイケな茶杓だと思う。

    三重県立美術館はやはり、半泥子のゆかりの地であるし、企画展最初の週末ということもあって、あいにくの雨天にもかかわらず混んでいた。当日は津市外でも川喜田半泥子のすべて展に連動した講演などもあったみたいで、それをはしごしてきた人もいたみたいだった。岐阜と三重とでは展示のしかたが違ってこちらもいいなあと思った。ガラスケースの時はいつも、ちょっと行儀が悪いかもしれない、正面からみている人には迷惑だろう、などと考えながらもついつい後ろに回ってみたくなる。後ろからしか見えない部分があるのだから、気になるのも仕方がない。ほかにもそういう人がたくさんいたことに勇気づけられて、私もそれに倣うことにした。新たな発見もあって満足した。半泥子が撮りためたビデオも上映中でこれも必見である。

    帰りに石水博物館にも立ち寄った。ビルの二階にあるというし、そのビルもなんとも冴えないオフィスビルだったので期待はするまいと思ったが、これがなかなか侮れない場所だった。「川喜田半泥子交遊録」という題で、いろいろな手紙や、半泥子のこういうの広さを感じさせる人たちの作品があった。有名人の若い頃の手紙などは本当におもしろいものだと感じた。そういうわけでまた行きたいと思っている。

  • 満員の個室便所

    僕はときどき満員の便所のことを想像する。この部屋に入るとすでにすべての便器がうまっていて待たされるという状況だ。しかたなく部屋の脇の方で申し訳なさそうに空くのを待つ。申し訳ないのはむしろこっちの方だ。使えなくて待たされている方なのに、先回りして使っている人に気を使わなければならないからだ。

    便所の入って、あまりにも満員であることが唐突で、部屋の隅の方で待つというところまで自分をコントロールする余裕が無い時は、所在ない気持ちを抑えるために用もないのに個室に入る。用もないから個室のドア越しに外で便器が空くのを耳を済ませて待っている。よしきた、と思って出て個室に向かおうとした瞬間に、また別の誰かが入ってきてその待ちわびた便器を占領されたとき、僕はもうどうしてもカッコ悪いのを知っているから必死に平静を装って洗面台で手を洗ったふりをして、別の階の便所に向かう。そこのところはちょっとだけ、いさぎよいと思う。

    それでも、その別の階でも、便器が埋まっていたとき、またしても個室に逃げ込む。そうして、スケルトンになった建物のすべての階の便所の、男子用と女子用のすべての便所の、個室と便器が埋まっているのを想像してしまう。その建物の便所ゾーンが一階から九階までまで縦に並んでいて、まるでそれはエレベーターみたいなのだ。そしてその建物のすべての階の全ての個室のみんなは満足そうにしているのに、自分独りだけドアに身を寄せて外の様子を伺っているのだ。個室とはなんて孤独なんだ。

  • ゴースト ニューヨークの幻

    ついに手に入れてしまった。『ゴースト ニューヨークの幻 スペシャル・デラックス・エディション』 のDVDだ。Amazonのまとめ買いキャンペーンを見かけ、以前から気になっていた作品とともに注文したのだ。

    思えば、私がずっと心に抱き続けてきた「陶芸家」の凛とした美しさのイメージは、この映画のデミ・ムーアからだった。『アンチェインド・メロディ』が流れるなかで、彼女がろくろを回すあの有名なシーンである。

    紐解かれた記憶を書き添えると、彼女の恋人である銀行員を演じたのがパトリック・スウェイジだ。そして、インチキ霊媒師でありながら、なぜかこの時だけ本物の霊能力を発揮してしまう愛すべき存在を演じたのが、ウーピー・ゴールドバーグだった。

    思いがけず手に入った特別版は2枚組だった。特典ディスクに収録されていた映像技術の舞台裏(メイキング)のインタビューが、実に興味深い。現代であればすべてコンピュータ・グラフィックス(CG)や3D技術で処理してしまうような超常現象の描写を、当時の人々は、今や失われつつある手作業のアナログな特撮技術と凄まじい試行錯誤で形にしていた。クリエイターたちの苦労と情熱の記録に、深く感心してしまった。

    しかし、今回の最大の収穫は、何よりもこの映画のストーリーそのものを鮮やかに思い出すことができた点にある。『アンチェインド・メロディ』の印象があまりにも強烈すぎて物語の細部を忘却していたが、それ以外の場面も名シーンの連続なのだ。

    今思えば、デミ・ムーアの凛とした美しさは、愛する恋人を失ったあとの、芯のある行動の姿から立ち上っていたのだ。そんな強い生き様が描かれるからこそ、あの静かなろくろのシーンは、より鮮烈に記憶に残り続けたのだと思う。

    そして、劇中で交わされる「Ditto(同じく)」という不器用でじれったい愛のセリフも、忘れられない。いつかニューヨークを訪れたなら、そっと使ってみたい言葉である。