大桑城と古城山

明智光秀のうぶ湯の井戸跡とお墓に行く途中で、大桑城跡のある古城山にも寄っていった。古城山は金鶏山とも呼ぶそうだけど、地元ではもっぱら城山(しろやま)と呼んでいた。日本中にあると思うのだけどお城があった山はたいてい城山という名前だ。

今はミニ大桑城という名前がつけられた小さな模擬天守閣が山頂にあるのだけど、それは私が大桑小学2年生のときに出来たものだ。たしか雨が降っていた日だったと思うけれど、小学校の全児童で麓まで見に行ったのを覚えている。ミニ大桑城という名前の模擬天守閣は、実際にあったらというサイズの何分の一かの小さなサイズで、小学校の体育館だったかで組み立ててそれを麓まで運び、最後はヘリコプターで山頂まで運んで設置したように記憶している。

この大桑城は、斎藤道三が土岐頼芸を最後に倒した場所で、司馬遼太郎の国盗り物語にも出てくるので、NHKの大河ドラマで国盗り物語を放送した1973年のころには、観光バスで観光客が来たこともあったらしい。今では信じられないけれど、今年もそんなことになるのだろうか。

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登山道もある。登山口には旗も立っていて、駐車場も近くにあるしでいいのだけど、その日は寒いので徒歩で登るのはやめた。クマも出ることがあるらしい。山は高さ407メートルで、山頂からは岐阜城のある金華山や濃尾平野が見下ろせるらしい。私が登ったのは大昔なのでそうだったのか覚えていない。よく考えたら、そういう見渡せる場所だから、戦国時代にお城を作ったということなのかもしれない。ちょうど私が行った元旦の朝には別名の金鶏山の由来にもなっている金の鶏が実は鳴いていたらしい。

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いまは、椿野はじかみ林道という、大桑から美山に自動車で通り抜けられる舗装された道もできていた。その林道の途中のもっとも標高が高そうなところには駐車場もあって、そこからも古城山の山頂への登山道につながっていた。

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開けたところがあって、眺めが良いぞと思ったら、パラグライダーの離陸場になっていた。

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明智光秀のお墓(桔梗塚)とうぶ湯の井戸跡

今年の元旦は、実家のある岐阜県山県市にある明智光秀に縁のある場所に遊びに行ってきた。明智光秀が生まれた時のうぶ湯の井戸跡と桔梗塚というなまえがついている明智光秀のお墓である。近くにある明智光秀の義弟の明智孫十郎直経の墓にも寄ってきた。ちょうど今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台でもある。場所は「麒麟がくる」の観光ガイドにもまとめてあったのでそれも参考にした。

以前にも来たことはあるのだけど、今年は大河ドラマのこともあって、近くに旗が立っていてわかりやすくなっていた。明智光秀の生まれた産湯の井戸の跡とお墓は白山神社のすぐ脇で、駐車場も近くに作られているようだった。今年は観光客も増えることを期待してのことだろう。

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明智光秀の誕生の地には諸説あって、誕生の地と名乗る場所は全国にいくつもあるようで、山県市もその一つだ。このお墓のある場所の近くの武儀川には「行徳岩」という光秀を身ごもったときに祈ったという岩があるらしい。

それから、生まれたときだけでなくて死についても色々と謎があるようだ。山崎の合戦で死んでいないという説では江戸時代まで生き延びて天海僧正になったという話は小説になっていたと思う。山県市のこのあたりでは、写真にもあるように、山崎の合戦では明智光秀は死んでいないということになっていて、死んだのは影武者の荒木山城守行信で、明智光秀は生まれ故郷のこの地に戻ってきて荒木の恩に深く感じて荒深小五郎と名乗っていたらしい。さらに関が原の合戦にも参じようとしたことになっているようだ。たしかに中学校の時に荒深という名前の同級生がいたのだけど、彼は明智光秀の子孫だったのだろうか。この近くには

明智光秀のお墓は桔梗塚という名前がついているのだけど、これは美濃の国主だった土岐氏と同じく明智氏も家紋に桔梗紋を使っていたかららしい。そういえば、私が通っていた大桑小学校の校章も桔梗だったし、山県市の花も桔梗だった。桔梗はこのあたりでよく使われてると思う。

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井戸の跡。すでに井戸は埋められているようで、水を汲むことは出来ない。

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明智光秀についての紹介の看板も井戸のすぐ脇にあった。以前来たときは看板等に苔がついていたのだけど、今はきれいに洗ってあるようで読みやすくなっていた。

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お墓とお墓に通じる道。

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近くに、明智光秀が生まれた庵の庭あとというのがあるようなのだけど、流石に山の中とあるので、正月早々コロンで怪我するわけにも行かないので諦めた。

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少し車で離れて国道418号線沿いに出たところの神明神社の近くに明智孫十郎の墓も見つけられた。

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この日はさらに、大桑城跡のある古城山にも行った。

小説の読み方

気運が来るまで気長く待ちつつ準備する者が智者。気運が来るや、それをつかんでひと息に駆けあがる者が英雄。―それが庄九郎の信念であった。そして庄九郎こそ、智者であり英雄だった。

「国盗り物語」第二巻の裏表紙に書かれている文章がこれだ。この部分が訳もなく気に入っていて、何かにつけ思い出すことが多い。

司馬遼太郎の作品の中で、私がもっとも好きなものがこの国盗り物語である。国盗り物語は全てで四巻である。このうち前半の二巻までが特におもしろい。司馬遼太郎も元はと言えば、松波庄九郎が美濃国を盗る前半二巻までで完とするつもりであったらしい。しかし、週刊誌での連載が好評であったため、その続編として織田信長と明智光秀の二人を主人公とした後半二巻分を作ったのだと聞いたことがある。

ところで小説とはいったいどう読むものなのだろうか。主人公になった気分で読むものだろうか。それとも第三者として読むものだろうか。そういう自分自身はどう読んでいただろうかと考えてみた。たいていは、主人公になりきって読んでいる様な気がする。そういえば、国盗り物語は前半で斎藤道三が死んでしまう。こうなると後半は誰になって読めばいいのだろう。草葉の陰からそっと見守る態度で読めばいいのか。