タグ: 茶の湯

  • 有楽苑で初釜 2014

    1月4日、矢島先生や岐阜大学茶道部のみんなと一緒に有楽苑の初釜に行ってきた。有楽苑は3年ぶりだけど今回もいい天気でうれしかった。

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    何ヶ月ぶりかだったり初めてだったりで会う人との挨拶が「あけましておめでとうございます」というのはなかなかいいものだと思った。名鉄犬山ホテルでのお節料理と雑煮はとても美味しかった。我が家の田舎っぽいものとは違って上品な雑煮だったけれど、犬山風の雑煮というとこういうものなのかな。

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    その続きを矢島先生の家で行った。島台の茶碗と花びら餅があると初釜らしい気分になる。裏千家以外だと定番アイテムというのは何になるのだろう。新年早々いろんな人に会って懐かしい話ができるというのは楽しいものだなと思った。

  • 竹茶杓の制作記録

    先日、竹の茶杓を作ったのが楽しかったので、これからもっと頻繁に作ろうと思った。それに、ひらめくところもあったので、その気持を書き留めるためにも、ここにその制作の記録を残したい。まだいい方法には程遠いので、この記事を見て「ここをこうしたほうがいいよ」というような事があれば、ぜひコメントなどで教えて欲しい。この制作方法はわたしがいまの時点で良いと感じている方法だ。

    making of chashaku

    今回の材料は壊れた熊手だ。先の手の部分がたいていちょうどいい太さで、竹を割る手間が省けていい。竹を割るのはけっこう技術がいるもので、素人にはなかなかうまく割れない。針金などをはずして熊手を分解する。

    making of chashaku

    これだという位置で、出来上がりの長さよりちょっとだけ余裕をもって、のこぎりで切る。後に火であぶって曲げるときに期待した場所とずれて曲がってしまうことがあるので、長さに余裕があると櫂先の長さもある程度は修正可能だ。節の位置はずれても問題ないが、櫂先が長かったり短かったりすると致命的である。失敗することもあるので一本だけでなくて複数まとめて切っておくといいと思う。竹を水洗いして汚れなどを落としてから、鍋でぐつぐつと5分か10分ほど煮る。

    making of chashaku

    鍋から取り出して熱いまま、ろうそくの火であぶって少しづつ曲げて撓めを作る。私のような素人には一番難しいところだ。どちらの面をあぶるというのはあまり気にしないが、ただ表側は焦げないように気をつける。曲げるときには、力がいるし火が熱くて指がやけどするので、櫂先の側は、ペンチやプライヤーを使うと楽だ。ただ竹の表面に傷がつかないように湿らせた鼻紙などをかませるといいように思う。急に曲がり始める瞬間があるので、その瞬間をとらえて曲げるが、曲げすぎないように気をつける。一気に曲げるとしばしば竹が折れる。割っただけの竹に撓めを作ってそれから茶杓の形に削るほうが、竹が太いので、もしも曲げる瞬間にミシミシと折れる音がしてもその部分をあとでぜんぶ削り落としてしまうことができていい。そういうわけで、私はその順番で作っている。曲がったらすぐに冷水に浸けるとその形で固まる(らしい)。

    making of chashaku

    そのあとはただただ小刀で好みの形に削るのみ。竹は木と比べて硬いので研いだりして切れ味を良くしておくとよい。勢い良く小刀をすべらせると竹が一気に割けて細くなってしまうので慎重に少しづつ削るようにする。

    making of chashaku

    なんども机において見なおして手直しする。最後にヤスリをかけるといいという人もいるけれど、ヤスリを掛けるとボンヤリとした茶杓になりがちなので出来れば使いたくない(ただしあまりささくれだっていると帛紗に引っかかって帛紗がボロボロになる)。ここで完成なのだが、そのまま放っておくとせっかく曲げた部分が次の日になると伸びて戻ってしまうので、曲がったままで一晩ぐらいは固定しておくといい。私は机の引き出しを開いて幅を調整して茶杓を挟んでいる。寝ぼけて引き出しを閉めると茶杓が折れるので注意する。

    この日つくって感じたのは、材料は色んな所に転がっているし、道具もなんだって使えるので、なにかわざわざ新たに買ってきたりすることはないのではないかということだ。むしろそこにあるものを使って何かを作るということが、いわゆる見立てというような考えにも通じているような気がする。それから失敗を気にせず、どんどんいろんな茶杓を作るほうがいいと思った。ダメだなと思った時はたぶんダメなのであきらめて幾つも作ったほうがいいと思う。本を読むと、茶杓の長さだとか切止めの形だとかいろいろ面倒くさいことが書いてあるけれど、そんなのはどうでもいい。どんな茶杓ができてもそれを使うにふさわしい場所はあるので、どんな茶杓を作っても間違いはないと感じている。そういうことを考えてちょっと気楽になったのでもっとたくさん茶杓を作ってどんどんブログにもまとめていきたい。

  • 風炉の季節の抹茶

    昨日は淡交会の研究会に行ってきた。初めてなのでよく解らなくて不安だったけれど、行ってみるとそんなことはなくてとても勉強になる一日だった。大勢の前で点前を見せる人がいてそこに業躰の先生が指導をしていくので、それを聞いて勉強するという会だった。(実はずっと業躰というのがどういう人たちなのかよく知らなくて、茶道教室の先生の親玉みたいな存在なのだと少し前まで思っていた。)今回の先生はとても饒舌で楽しい話ばかりだった。

    濃茶の話の時に一番に印象に残ったのは抹茶の話だった。この風炉の既設というのは古いお茶なので見た目も風味もあまり良くない。風炉と炉というのはそういうところも違うんだということを言っていた。僕はそれを聞いてすごく大切で根本的なことなのにこれまでまったく気に留めていなかったことがあったのだと知らされたような気がした。冷蔵庫に入れておけば一年中美味しいお茶が飲めるというわけではない時代があったのだ。色々なことを考えさせられた。

  • 根津美術館へ

    Poster

    はじめて根津美術館へ行ってきた。ずっと行きたかったけれどなかなか機会が得られなかったのだけど、いざ行ってみると期待以上によくて、無理してももっとはやくに時間を作って行くべきだったと感じた。そう思える場所が増えていくのは、東京へ行くときの楽しみが増えてうれしい。

    肝心の企画は「中世人の花会と茶会」というコレクションからの展示で、唐物が大切にされた時代のものが中心だった。ポスターにある、無一物という長次郎の赤楽茶碗が見ものの一つなのだろう。でも、いわゆる楽茶碗の良さは相変わらず僕にはよく解らなかった。

    赤楽茶碗 銘 無一物 長次郎作 【特別出品】
    赤楽茶碗「無一物」は、黒楽茶碗「大黒」とともに、陶工・長次郎が千利休の意を受けて作り上げた茶碗の代表作。端正な半筒形で赤い土は、手に柔らかさを感じさせる、最高の茶碗といわれている。

    という説明を読むたび、(この説明文は使いまわしなのだろうか。そこらじゅうでもう何度も読んでいる気がする。)、誰が最高だと言っているんだ!?と言いたくなる。歳を重ねないと楽茶碗の良さは分からない、なんていう文章を見かけたときもあって、胡散くさい事を言う人だ、本当に良いと思っているのか怪しいな、とすら思ってしまったぐらいで、僕には何年か何十年か経っても楽茶碗カッコイイという気持ちになるような気は(今は)しない。それと同じような感覚は今回もいくつか並んでいた茶入にもある。特に文琳という形の茶入はカッコイイのかどうかまったくわからない。(肩衝も実はほとんどわからない。)

    その一方で、これまでよく解らなかったものでいいなと思うようになったものもあった。ポスターの上の方に載っている砂張の釣舟花生だ。金属っぽいものはカッコイイと思うことはこれまでにもあったと思うけれどもなんだかよく解らないという感じだった。だれど今回は、こういうところがカッコイイのじゃないかというのがちょっと解ったような気がした瞬間があったのがうれしかった。

    そのあと庭を少し歩いた。とても広い庭で、ところどころ茶室があっておどろいた。せっかく茶室があるのに、障子も雨戸も何もかも閉めきってばかりだったのは勿体なくて見えなかったのは残念だった。ものすごくたくさん人が来るのだから我慢するしか無いのかもしれない。

  • 有楽苑で初釜 2010

    Yuya Tamai

    こいつは春から縁起がいいわい~、なんてことを期待して愛知県犬山市の有楽苑に行ってきた。わざわざ1月3日に行ったのにはわけがある。年のはじめは初釜だ。初詣よりも初釜だ。せっかくいくなら有楽苑こそふさわしいはずだと思った。なぜなら国宝茶室の如庵(NYOAN!)があるからだ。

    如庵がある、と言っても中に入り込めるわけではなく、窓の隙間から覗くだけだ。こういうとき、出目金だと隅々までいろいろ見えるのじゃないかと思う。こっちはしかもメガネだからぎりぎりまで茶室に近寄ることもできない。それにしても茶室というのは暗い。電気の明かりの無い中で一杯の茶をのむというのは興奮するものだろう。窓から茶室の隅々を覗き込みながら、自らがそこで亭主として、あるいは客としてそこにいる姿を想像した。

    そのあと道具の拝見をしたのだけど、ひとつ前の人たちがかなりの手練で困った。いきなり茶碗をグワシとつかんで裏返し始めたのだ。手当たりしだいに触っているではないか。こんなこともできるのか、さすがは初釜、出血大サービスか。そう期待してしまったが、そのオバサン達がやり過ぎなだけだった。その勢いにのって、「茶杓を触っていいですか」と聞いてみたが、「だめだ」って言われた。当たり前か。

    それで、肝心の茶席の方はというと勝本師の言うとおりで、ちょっと期待はずれだったかもしれない。待合での息が詰まる用な緊張感とは対照的に茶席では気が抜けてしまった。部屋が広いから深呼吸もできるし、周りのすべてを見渡すこともできる。隙間が多すぎて締まらないような気がした。大寄せの茶会の物足りなさというのはここに問題があるのではないか。狭くて後ろを振り返ることもできない、つばをのむとその音を聞かれる、視線を上げて相手の顔を見られない、そんな重苦しいくらいの場所がいいかもしれない。千利休はそんなことを考えて二畳の茶室を作ったのだろうか。