小説の読み方

気運が来るまで気長く待ちつつ準備する者が智者。気運が来るや、それをつかんでひと息に駆けあがる者が英雄。―それが庄九郎の信念であった。そして庄九郎こそ、智者であり英雄だった。

「国盗り物語」第二巻の裏表紙に書かれている文章がこれだ。この部分が訳もなく気に入っていて、何かにつけ思い出すことが多い。

司馬遼太郎の作品の中で、私がもっとも好きなものがこの国盗り物語である。国盗り物語は全てで四巻である。このうち前半の二巻までが特におもしろい。司馬遼太郎も元はと言えば、松波庄九郎が美濃国を盗る前半二巻までで完とするつもりであったらしい。しかし、週刊誌での連載が好評であったため、その続編として織田信長と明智光秀の二人を主人公とした後半二巻分を作ったのだと聞いたことがある。

ところで小説とはいったいどう読むものなのだろうか。主人公になった気分で読むものだろうか。それとも第三者として読むものだろうか。そういう自分自身はどう読んでいただろうかと考えてみた。たいていは、主人公になりきって読んでいる様な気がする。そういえば、国盗り物語は前半で斎藤道三が死んでしまう。こうなると後半は誰になって読めばいいのだろう。草葉の陰からそっと見守る態度で読めばいいのか。

「小説の読み方」への5件のフィードバック

  1. 私も国盗り物語が大好きです。

    大桑城の反対側(美山側)の集落では餅屋が無いそうです。

    なんでも大桑城をなかなか落とせなかった道三軍に城の弱点を教えてしまったのが、

    餅屋のおばあさんであって、国主を売った奴として嫌われたんだそうな。

    言い伝えですがね。

  2. 同じ山県市民ですね!
    美山のどこですか?
    こちらに来た時にはぜひ、電話をください。

    わたしはまさに大桑に住んでいるのですが、また城下町の発掘が行われるというような話があったはずです。
    国盗り物語のクライマックスが大桑城ですから、司馬遼太郎ファン必見です。

    それにしても、なんと、大桑城が陥落してしまったのは美山に住んでいた餅屋のせいだったとは、知りませんでした。
    そうでなければ歴史は変わっていたのかもしれませんね!
    大桑城が残っていれば、土岐頼芸が国主として存在して、その後の斎藤道三も、そして織田信長もなかったでしょうから。

  3. 自国の歴史、郷土の歴史を知らなさ過ぎる人が多すぎます。

    自分の国の歴史を知らないで自分の国を愛せるでしょうか。
    自分の生まれた所も知らないで誇りが持てるでしょうか。

    現代における大きな問題のひとつだと思います。

    他府県で

    「岐阜なんてなんにもないよ」

    と平気で言ってしまえるような白痴で下衆な人間にはなりたくないですね。

  4. 強烈ですね。
    「○○なんてなんにもないよ」というのが自分の無知を宣伝しているのなら滑稽ですね。

    ところで、今ある大桑城は21年前の昭和63年に再建されたものです。
    私が大桑小学2年生で、大桑城が完成した日の様子はテレビ中継されていたことを今でも覚えています。
    雨の降りしきりる一日でした。

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