投稿者: 玉井 裕也

  • 杉の木で蓋置をつくった

    このあいだ拾った杉の木で蓋置を作った。その記録を残したい。2月に東京国立博物館で円空展を見て以来、なにか木で作りたいと思っていて、本当は円空仏を作りたいのだけど、道具もないので円空仏は無理だなと考えていたところ、蓋置なら作れるだろうということになった。家の中を探したら小学生の頃に図工で使った彫刻刀も出てきた。実際には思い通りにはいかなかったのだけど、とりあえず作ったところをここにまとめる。

    futaoki

    蓋置を作ろうと思ったのは、ちょうど拾った杉の枝がそのまま蓋置になりそうな太さだったからだ。のこぎりで切るのも予想以上に力が必要で大変だったのでいい部分をきろうという欲は捨てて、端っこから2つばかり切った。

    chisel

    小学生の頃に使っていた彫刻刀だ。刃がにぶかったので少しだけ研いだ。箱に見える円空仏がカッコイイなあと思った。

    futaoki

    とりあえず面取りをしたら、それだけで一気に穏やかな雰囲気で、プロダクト感が出た。

    futaoki

    あとは柄杓が置きやすいように中央部分を彫って窪ませれば完成だと思ったのだけど、ここからが大変だった。木が硬くて全く彫刻刀では彫れなかったのだ。刃がうまく研げていなかったのかもしれない。それとも木とはそもそもそういう硬いものなのかもしれない。杉の木で出来た割り箸だとかは柔らかくて簡単に削れるのでそんな感じだろうと思ったらまったく違って、これは何か別の素材なのじゃないかと感じたほどだ。

    まったく木のことを知らなかった。とにかく何も知らないままだったのでもっと木のこともしっかりと知りたいと感じた。作るということは色々なことを知る切っ掛けになってくれて面白いし楽しい。もうちょっと調べて、また挑戦したい。そして出来れば道具も揃えて円空仏を作りたい。

  • 竹茶杓の制作記録

    先日、竹の茶杓を作ったのが楽しかったので、これからもっと頻繁に作ろうと思った。それに、ひらめくところもあったので、その気持を書き留めるためにも、ここにその制作の記録を残したい。まだいい方法には程遠いので、この記事を見て「ここをこうしたほうがいいよ」というような事があれば、ぜひコメントなどで教えて欲しい。この制作方法はわたしがいまの時点で良いと感じている方法だ。

    making of chashaku

    今回の材料は壊れた熊手だ。先の手の部分がたいていちょうどいい太さで、竹を割る手間が省けていい。竹を割るのはけっこう技術がいるもので、素人にはなかなかうまく割れない。針金などをはずして熊手を分解する。

    making of chashaku

    これだという位置で、出来上がりの長さよりちょっとだけ余裕をもって、のこぎりで切る。後に火であぶって曲げるときに期待した場所とずれて曲がってしまうことがあるので、長さに余裕があると櫂先の長さもある程度は修正可能だ。節の位置はずれても問題ないが、櫂先が長かったり短かったりすると致命的である。失敗することもあるので一本だけでなくて複数まとめて切っておくといいと思う。竹を水洗いして汚れなどを落としてから、鍋でぐつぐつと5分か10分ほど煮る。

    making of chashaku

    鍋から取り出して熱いまま、ろうそくの火であぶって少しづつ曲げて撓めを作る。私のような素人には一番難しいところだ。どちらの面をあぶるというのはあまり気にしないが、ただ表側は焦げないように気をつける。曲げるときには、力がいるし火が熱くて指がやけどするので、櫂先の側は、ペンチやプライヤーを使うと楽だ。ただ竹の表面に傷がつかないように湿らせた鼻紙などをかませるといいように思う。急に曲がり始める瞬間があるので、その瞬間をとらえて曲げるが、曲げすぎないように気をつける。一気に曲げるとしばしば竹が折れる。割っただけの竹に撓めを作ってそれから茶杓の形に削るほうが、竹が太いので、もしも曲げる瞬間にミシミシと折れる音がしてもその部分をあとでぜんぶ削り落としてしまうことができていい。そういうわけで、私はその順番で作っている。曲がったらすぐに冷水に浸けるとその形で固まる(らしい)。

    making of chashaku

    そのあとはただただ小刀で好みの形に削るのみ。竹は木と比べて硬いので研いだりして切れ味を良くしておくとよい。勢い良く小刀をすべらせると竹が一気に割けて細くなってしまうので慎重に少しづつ削るようにする。

    making of chashaku

    なんども机において見なおして手直しする。最後にヤスリをかけるといいという人もいるけれど、ヤスリを掛けるとボンヤリとした茶杓になりがちなので出来れば使いたくない(ただしあまりささくれだっていると帛紗に引っかかって帛紗がボロボロになる)。ここで完成なのだが、そのまま放っておくとせっかく曲げた部分が次の日になると伸びて戻ってしまうので、曲がったままで一晩ぐらいは固定しておくといい。私は机の引き出しを開いて幅を調整して茶杓を挟んでいる。寝ぼけて引き出しを閉めると茶杓が折れるので注意する。

    この日つくって感じたのは、材料は色んな所に転がっているし、道具もなんだって使えるので、なにかわざわざ新たに買ってきたりすることはないのではないかということだ。むしろそこにあるものを使って何かを作るということが、いわゆる見立てというような考えにも通じているような気がする。それから失敗を気にせず、どんどんいろんな茶杓を作るほうがいいと思った。ダメだなと思った時はたぶんダメなのであきらめて幾つも作ったほうがいいと思う。本を読むと、茶杓の長さだとか切止めの形だとかいろいろ面倒くさいことが書いてあるけれど、そんなのはどうでもいい。どんな茶杓ができてもそれを使うにふさわしい場所はあるので、どんな茶杓を作っても間違いはないと感じている。そういうことを考えてちょっと気楽になったのでもっとたくさん茶杓を作ってどんどんブログにもまとめていきたい。

  • 卒業制作

    chashaku

    卒業記念に茶杓と香合を作りました。茶杓は久しぶりに作ったのですが、思いのほかうまく出来たと思います。たまたま見つけた壊れた熊手に使われていた竹をよく見たら、良さそうな胡麻竹で、しかも太さもいい具合だったので分解して茶杓を作ることにしました。撓め(先の曲がっている部分)を作るのが難しくてあいかわらず運任せなのだけど今回は悪くない出来だと思っています。

    kogo

    香合は少し前に作ったものです。岐阜大学の学章の形になっています。岐阜大学のイメージカラーはオレンジと黒ということになっているのですが、私には黄瀬戸と飴釉に見えてならなかったので、これは陶器で作るしかないとずっと前から考えていました。なかなかいい具合に釉薬が溶けてくれました。

    つぎは熊手の柄の部分で共筒が作れたらいいなあと思っているところです。

  • IAMAS 2013

    2月23日に IAMAS 2013 へ行った。展示そのものを見る時間があまりなかったのは残念だったけれど、目当てだったトークイベントはなかなか良くて、来た甲斐はあったと感じた。

    IAMAS 2013

    イベントの前半は池上高志・明和電機・三輪眞弘のこれまでのことの紹介で、後半が三人の討論で、そこがおもしろかった。サイエンスとは、アートとは、というような話などから始まって、とくに池上高志の話が面白く感じた(あ〜なるほど〜と共感を覚えるところが多かった)。サイエンスだとかアートだとかの違いを考えるのは楽しいけれど、ことさらに分け隔てて考えるのはダサいなと思った。

    この日は実はいろんな懐かしい人に会えたのも楽しかった。そのなかでとくにうれしかったのは、高校時代に生物を習った和田先生と話をする機会があったことだ。13年前とまったく変わっていないのがうれしかった。ぼくは変わっていたのだろうか、それともかわっていたのだろうか、なんてことを帰りの車の中で考えた。

    IAMAS 2013

    そしてとにかく驚いたのは、小塩くんに遭遇したことだ。展示を見ていたらぼくを呼ぶ声がして、振り向いたら見覚えのある女性が、そしてそのとなりに小塩くんがいた。侮れないなとおもった。

    IAMAS 2013

  • 僕は本にはさむ栞が好きだ。栞が好きになったきっかけを考えてみた。たぶん一番は、本を一気に読むことがなかったというところだと思う。もともと気が散りやすい方で、何時間も読書し続けるなんてできない。それで自然と栞をはさむようになったのだろう。それに、小学校や中学校の頃、図書館で借りてきた本は折り曲げたり書き込んだりはできない。自分で買った本でもいまだに、もったいなくて折り曲げたりはできない。そういうわけで今でもやっぱり栞をはさむのだろうなと思った。

    栞といえば、古本屋で買った本から前の持ち主がはさんだままの栞が出てくるのが好きだ。手作りの栞が出てきた時なんて最高だし、その栞にメモが残っていたりするのも、いろいろ想像が膨らんでいい。出てきた栞が妙に古臭いものだった時も、この本はいったいどんなに長い間古本屋の本棚に眠っていたのだろうなんて想像できて楽しい。しわくちゃのスーパーのレシートがはさまっているのも好きで、読みかけで誰かに呼ばれてとっさに買い物帰りの財布にレシートを見つけてはさんだのかななんて勝手に物語をつくったりしている。