灰釉香合 銘 オタフク

灰釉香合 銘 オタフク

特に釉薬が気になり始めて1年近くになる。庭の落ち葉や剪定した枝などを燃やした灰から釉薬を作ろうとしたのは去年の秋のことだ。釉薬というのは灰と長石を混ぜれば誰でも簡単に作れるものだと知ってから、いろいろ実験を重ねている。作ってばかりは退屈なので少しづつ自分の作品も紹介したいと思う。プロの陶芸家は個展などで発表すればいいけれど、素人だって発表したくてうずうずしているのだ。

この香合は数カ月前につくったものだ。釉薬は松灰に釜戸長石を少々混ぜてつくったもので、陶芸教室で還元焼成してもらっている。写真では上手く伝わらないけれど、デコボコがあってムラがあるのが気に入っている。五斗蒔の赤土で形をつくったときは、ダルマの香合にしようと思っていた。だけど絵を書くのが苦手なので釉薬だけを掛けて焼いたらダルマというよりもオタフクになってしまった。形だけでダルマに見せるのは難しい。

つくづく私は灰釉や黄瀬戸が好きなんだと思う。色いろある釉薬の中でいちばん心が惹かれるような気がする。それに灰釉や黄瀬戸は単純な組み合わせだから素人でもけっこう楽に作れる釉薬だろうと感じている。その単純さがプロにとっては難しいところなのだろうけど。とにかく私にとっては面白い釉薬なのだ。だからずっと灰釉や黄瀬戸釉ばかり作っている。しばらくの間は、お気に入りと呼べる灰釉や黄瀬戸を作るのが目標だ。

お棗、お茶杓の拝見を・・・

茶道の稽古で辛いところは、時間がたつとすぐに忘れてしまうことだ。家でもときどき稽古をしているけれど道具が無いのがよくないのか、ほとんど覚えられない。本を読んだり、付録のDVDをみたり、それでもなかなか覚えられない。ちょうどいま、NHKで「茶の湯 表千家」を放送中なのでこれを見て復習しようと思っている。

なかなか覚えられない点前の中でおもしろいのはやはり「拝見」だ。亭主と客とが会話をするのはおもしろいと思う。茶席と言うのはそもそもそういう場所だ。喫茶店ではないんだからウエイターが黙ってテーブルにコーヒーをおいて行ったり、無口なマスターとカウンターをはさんで一人コーヒーを飲むなんてことはない。実際の茶席ではそういうことはないのだけど、稽古はそうも行かない。教科書をなぞるのもままならないのに、それ以上のことなんてできない。形をまねるばかりで、亭主と客とは、正しくは亭主役と客役とは、赤の他人を演じているのだ。これだからぎこちないのだとおもう。そんな中で会話を交わす瞬間はやはり良いものだ。決められたセリフを暗誦するだけとわかっていても楽しいものだ。

そうは言ってもやはり、変なのだ。たしかに、茶碗の拝見をしてもなんにも分からないから、わかるようになりたいと美術館に足を運んだりして少しわかることができたような気がする。だけど、毎回のように拝見している棗と茶杓が全くわからない。違うけれど何が違うのか、違うからどうなんだ、と言うことがわからない。どこに目をつけたりどう見たらいいのか、さっぱりなのだ。頭の中は空っぽなのに「拝見をお願いします。」なんて言うのだからおかしな話だ。何もわからないと知りながら、棗の蓋をとって覗いてみたり、茶杓を裏返したりするのだ。なんて滑稽なんだ、これではイカン、と最近強く思う。空虚でない拝見を始めるべき時期が到来したに違いない。

美濃陶芸庄六賞茶陶展

このあいだ、岐阜高島屋にいったら美濃陶芸庄六賞茶陶展が回ってきていたので立ち寄った。時刻も遅く混雑していなかったので、ゆっくりとみられてよかった。それにしても有名作家の作品は高い。どうやって値段を付けているのかわからないけれど、そんなに高くなるものなのか。茶碗は特に高い。となりのぐい呑みにいくと十分の一ぐらいの値段だ。ぐい呑などの酒器をコレクションするという人の理由もそこにあるかもしれない。

美濃陶芸協会のページにのっているとおり、今回の庄六賞は耀彩天目の水差しだった。天目っていまいちわかんないなあ、とずっと思っていたんだけど、天目にもいろいろあってけっこうおもしろいと感じて気になっている。コラムのとおりで、岩田渓山の耀彩天目は闇夜の星のようだった。ところで〇〇天目っていうものには何種類ぐらいあるのだろう。

最近気になるのが黄瀬戸だ。このあいだ教室で作った一輪挿しに黄瀬戸をかけたらなかなかいい具合に濃淡が出てしまった。下手なだけでも、それもそれでよく出来のはうれしい。でもこういう所で見る黄瀬戸はそういうのとは全く違う。今回の庄六賞茶陶展にも安藤日出武の黄瀬戸の茶碗があった。いわゆる油揚手というのがこれなのか。ブツブツとザラザラがいい。そういえば写真で見た加藤唐九郎もブツブツザラザラしていた。これは黄瀬戸なのか。自分が黄瀬戸じゃないのか。

こういう展覧会はいろいろな人の作品をまとめてみられるのでおもしろいとおもう。いろいろありすぎて混乱して帰ってくることも多いけれど、いろいろな人の作品を比較してみるのは勉強になる。どからどこまで存在しうるのかとうことをちょっと知ることもできる。