CanCam!?

おいおい。CanCamってなんだよ。キャンキャンっていうからCanCanだとずっと思ってきたのに、CanCamって。これじゃ、キャンキャムだよ。あわてて姉キャンを調べたらAneCanなんだってさ。Canを取るかCamを取るか、難しい問題だよねって気になったのに、説明もなくAneCanと言われて納得できるはずもない。

このCanやCamって何かを省略したものなのだろうか。絶対にそうあって欲しい。意味もなく語呂だけでCanCamって名付けたのだったらかなりのものだ。Can=(助動詞)できる、Cam=Camera、と瞬間でも感じてしまった私はどうかしている。それでも何の意味もなくいきなり「キャンキャン」をひねり出したというのではどうにも納得できない。なにか理由をつけて欲しい。

そういう意味でJJなんてもってのほかだ。JJという言葉を暗誦するたびに頭の片隅にフッと浮かんでくる川平慈英兄弟を消すにはJとJに何か意味付けが欲しいのだ。JapanJapanでもJoshiJoshiでもJaraJaraでもいい。どんなにくだらなくてもいいから。どうして同じのを繰り返してしまうんだろう。発音が同じなら元の言葉も一緒であって欲しいと思うのだろうか。そういう点でもキャンキャンがCanCanでなくCanCamだというのはやっぱり不思議なんだよね。

お棗、お茶杓の拝見を・・・

茶道の稽古で辛いところは、時間がたつとすぐに忘れてしまうことだ。家でもときどき稽古をしているけれど道具が無いのがよくないのか、ほとんど覚えられない。本を読んだり、付録のDVDをみたり、それでもなかなか覚えられない。ちょうどいま、NHKで「茶の湯 表千家」を放送中なのでこれを見て復習しようと思っている。

なかなか覚えられない点前の中でおもしろいのはやはり「拝見」だ。亭主と客とが会話をするのはおもしろいと思う。茶席と言うのはそもそもそういう場所だ。喫茶店ではないんだからウエイターが黙ってテーブルにコーヒーをおいて行ったり、無口なマスターとカウンターをはさんで一人コーヒーを飲むなんてことはない。実際の茶席ではそういうことはないのだけど、稽古はそうも行かない。教科書をなぞるのもままならないのに、それ以上のことなんてできない。形をまねるばかりで、亭主と客とは、正しくは亭主役と客役とは、赤の他人を演じているのだ。これだからぎこちないのだとおもう。そんな中で会話を交わす瞬間はやはり良いものだ。決められたセリフを暗誦するだけとわかっていても楽しいものだ。

そうは言ってもやはり、変なのだ。たしかに、茶碗の拝見をしてもなんにも分からないから、わかるようになりたいと美術館に足を運んだりして少しわかることができたような気がする。だけど、毎回のように拝見している棗と茶杓が全くわからない。違うけれど何が違うのか、違うからどうなんだ、と言うことがわからない。どこに目をつけたりどう見たらいいのか、さっぱりなのだ。頭の中は空っぽなのに「拝見をお願いします。」なんて言うのだからおかしな話だ。何もわからないと知りながら、棗の蓋をとって覗いてみたり、茶杓を裏返したりするのだ。なんて滑稽なんだ、これではイカン、と最近強く思う。空虚でない拝見を始めるべき時期が到来したに違いない。

川喜田半泥子のすべて

「川喜田半泥子のすべて」展のことを書かねばなるまい。間違いなく去年見た企画展では一番だった。ダントツの一番だった。もう一回ぐらいは見ておかならければと思う。岐阜県現代陶芸美術館からはじまり現在も巡回中で東京、横浜、山口、さいごに三重に帰ってくるみたいだ。

何でもありでやりたい放題なものをいきなり見せつけられた。悪ノリかよというのもあった。遊びゴコロが最高に嬉しくて私はなんどとなく繰り返し感動した。半泥子と言う人は絶対にもう楽しくてたまらなかったのだ。笑いをこらえながら作ってたかもしれない。銘の感覚がこれまた痛快でいいのだ。とにかく半泥子をうらやましく感じた。

自分の家に近所のお百姓を呼び出して、茶を点ててはのませていたらしい。その前で、あられを口にほおばって茶碗を片手でつかんで飲み干してみせたそうだ。何でもありなのか、そもそも何も無いというべきなのか、いやいやそういうことじゃないんだ、と妙に納得した展覧会だった。