柳宗元と柳宗悦

最近になってようやく、この二人の違いがわかった。柳宗元は大昔の人で、柳宗悦は少し昔の人だ。これまで同じ人だと思っていた。柳宗元を耳にしては柳宗悦を思い浮かべ、柳宗悦を目にしては柳宗元を思い出していた。赤っ恥だ。どうしてこういう事になってしまったのか。それに柳宗悦が所ジョージだったなんて。危ない橋を渡るところだったゾ。

ところで似た名前を区別して思い出すのは難しいことだと思う。だけど本当は逆だ。似ているのだから区別しやすいのだ。全く似ても似つかない物をわざわざ区別する方がよほど難しい。柳宗元と柳宗悦なんて似ているかどうかすら考える余地のない別人だった。

このあいだ大学のエレベータの中にチラシを見つけた。新しく入った大きなNMR装置の内覧会のお知らせらしい。「あなたも800ステラの世界を体感しよう!」ってなんか変だ。ステラってNHKのTVガイドじゃないか。そういうことを見つけて帰り道が少し楽しなった。そういうことを見越して書いているのなら、やられた。負けたのはこっちかもしれない。

人生意気に感ず

「人生意気に感ず」とは、唐詩選の最初にも出てくる魏徴の述懐の一部である。男というのは意気に感じて行動をするものであるようだ。これは述懐の最後の部分で、続いて「功名誰か復た論ぜん」としてこの詩を締めくくっている。そもそも功名心から行動するものではないのだ。

元はといえば、この詩を最初に知ったのは藤沢秀行という棋士が好きだったからなのだ。彼の本で初めてこの言葉を見つけた。本の題名がまさに「人生意気に感ず」だったのだ。その時すぐにはその言葉の意味はわからなかったけれど、とてもかっこいい言葉だと思った。なんという意味だろうと思っていたら、「述懐」という詩にたどり着いた。

藤沢秀行という人を私は新聞やテレビでしか見たことはないのだけれど、魅力あふれる人であったそうである。色々と人騒がせな人で、逸話も多い。だけど、そんな行動も何か意気に感じるところがあってのことだったのかもしれない。実は、私が囲碁を覚えて間もないころに何度か読んだ本を書いたのがこの藤沢秀行だった。それが理由かわからないけれど、囲碁の打ち方について以外の彼の本もその後も何冊か読んだ。藤沢秀行の盤上の打ち方は異常だったらしいけれど、その盤外の生き方も異常なことが多かった。意気に感ずるというのはどういうことなのか、もういちど考えてみたい。

二種類の人間

世の中には二種類の人間が存在する。李白と杜甫である。私は杜甫だろうか。理想と現実とを往来する杜甫の詩には共感することが多い。

望岳
岱宗夫如何
斉魯青未了
造化鍾神秀
陰陽割昏暁
盪胸生層雲
決眥入帰鳥
会当凌絶頂
一覧衆山小

若き日の杜甫の様子が目に浮かぶ。その後、杜甫は泰山に登ったのだろうか。この気持ちをかなえることはできたのだろうか。泰山がどのようなもか、天下ははたして小さいものなのか。この詩は私のいまの気分をよくあらわしてくれているように思える時がある。